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ミラクル先生篠田美和子による鎌倉市、大船駅の宇宙学校「ミラクル和クワクスペースランド」

「ミラクル和クワクスペースランド」に通ってくださるお客様の声です。

「頑張らなければ、努力しなければ、幸せになれない」という思想から解放され、大きく変容できるセッションです。

あらゆる球(ボール)を使った練習を通して潜在能力を引き出します。人とのコミュニケーションを全身で身につけ、和のこころを学びます。

ミラクル先生篠田美和子のプロフィール

 

幼少期

 

1961年(昭和36年)10月4日 東京都世田谷区自由が丘に生まれる。

3000gという標準体重で生まれましたが、よく飲み、よく食べ、まるまる太っていたようです(固太り)。

腕は丸大ハムのようにむちむちで元気いっぱいだったようです。

 

ミラクル和クワクスペースランド アクセス

 

 

独立心が旺盛で、歩き始めたらどんどん自分で歩きたがりある日、母と散歩していたときのことです。

小高い丘からすこし下りの山の斜面で、母が「お手手つなごうか?」と言って手を差し伸べると、

「じんぶ!」と言って(自分のことを「じんぶ」と言っていました。)

 

母の手をふりほどき、自分で斜面を降りようとしました。

ですがさすがに怖いと見えて、くるっと向きを変え山の斜面に腹這いになり、ずるずると滑り降りたということです。

もちろん泥だらけになって・・・

 

そんな私でしたが3歳の時父が亡くなって(このことは小学校5年生までパパはお仕事でアメリカに行っていると聞かされていました。)

母が働くにあたって最初の2年間、西新井の遠い親戚に預けられていました。

 

そのお家は原っぱ、田んぼのなかにある長屋のような狭いお家で、おじちゃん、おばちゃん、男の子4人の中に私が入りました。

3~5歳まで私は他人に育てられたのです。

おじちゃん、おばちゃんはほんとうに可愛がってくれ、

おばちゃんのあったかいごはん、あかぎれだらけの手で一生懸命つけてくれた白菜のお新香の味は忘れません。

 

おじちゃんはよく肩車して西新井大師に連れて行ってくれました。

たくさんの小判と鯛がついた縁起物のお飾りを買ってくれ、肩車にのっかったとき、おじちゃんのはげ頭に反射してまぶしかったことを覚えています。

 

西新井の原野の中、4人のお兄ちゃん達を追っかけて遊んでいました。

木登り、川遊び、虫捕り、かけっこ、おにごっこ、すもう、キャッチボール、決闘ごっこ、めんこ、ベーゴマ・・・男の子の遊びばかりでした。

そのおかげで私は体力と負けじ魂、自然への感性が培われました。

 

幼稚園の年長組に入った私はみんなと遊ぶのが大好きなおとなしい子でした。

あまり自分からしゃべる感じではなかったようです。

 

連合運動会でその幼稚園代表のリレーの選手に選ばれびっくりしました。

いつもお兄ちゃん達の後を追っかけていたので、自分が足が速いなんて知りませんでした。

 

本番でトラックを走る意味が分からず、思いっきり外側のアウトコースを走りました。

観客席の拍手が届くところです。

それでも1番でした。

 

学芸会のとき、主役のふくろう役に選ばれたのですが、

みんなが「こけしの踊り」を楽しそうに踊っているのにじぶんだけ、

あとからの出番で、みんなが踊っているのを舞台の袖で見ているのがさびしくて泣いていました。

それを見て先生がこけし役に変えてくれて嬉しかったです。

 

家族は、母、祖母、母の弟、妹、私の5人が6畳に寝ていました。

にぎやかで楽しく、夕飯後はみんなでお皿を洗った後、トランプ、ボードゲームなどを毎日やる家族でした。

このように幼少期の私は、野生児のように体を動かすのが大好きで、家族や友達みんなで遊ぶのが大好きでした。

性格はおとなしく自分からしゃべったり、自己主張する感じではありませんでした。

 

 

小学校時代

 

とにかく遊ぶのが大好きでした。

とくに自然の中で遊ぶことです。

 

夏休みは朝早くから蝉取り、高い木のかなり上の方まで登ってとりました。

プールに毎日自転車で通い、帰ってきてお昼を食べてみんなでお昼寝。

 

冷房はなく、扇風機と母があおいでくれるうちわの風が心地よくいつのまにか眠りの中・・・起きるとかき氷を作って食べました。

夕方は打ち水をやって、真っ暗になるまで外で遊びました。おにごっこ、かくれんぼ、かんけり、くつかくし、めんこ、ドッチボール、探検・・・

小学校3年生くらいまでは、とてもおとなしい子でした。

 

学校では友達と遊ぶのが大好きで放課後遅くまで遊んでいました。

普通に真面目に勉強する子でした。

 

小学校1年生から6年生までスイミングに行っていました。

1年生の時、一番下の級で、ヘルパー3つ+ビート版25mバタ足のテストで、全身に力が入りすぎて3分以上かかってゴール。

一緒に習い始めた友達はとっくにゴールしており、私には水泳の才能がないんだと落ち込みました。

それでもどうしたら早く泳げるか~速い選手の泳ぎ方を見たり、毎日柔軟体操やうちの畳の上で練習するうちに少しずつ上達していきました。

 

気づいたら5年生からは選手コースに入り、6年生の時、バタフライで対外試合にも上位にくいこむ選手になっていました。

コーチから中学に入っても水泳を続けることを勧められましたが、中学に入ったバレーボールをやろうと決めていたのでスイミングは6年生で辞めました。

3年ころまでおとなしかった私が変わり始めたのは小学校4・5年の担任だったY先生の影響です。

クラスが一つの家族みたいに仲が良く、勉強もスポーツも6クラスあった学年のいつも一番でした。

このとき私は「チームワーク」「チーム力」を学びました。

 

先生が子どもたちの目線で接してくれて、休み時間は私が作った漫画の歌集で先生も一緒にみんなで歌ってくれました。

文集を行事のたびごとに作っていました。

たぶん年間5・6回文集を作りました。

ここで私は書くことが好きになっていきました。

 

本も大好きで図書館でたくさん本を読みました。

また、ちょうどアタックN0.1などのスポ根全盛期で、学校で鮎原こずえなどの漫画の主人公になりきってみんなで真剣に楽しんでいました。

 

そんな中、小学校5年生の時、「若さでアタック!春の高校バレー」を東京体育館に観に行く機会がありました。

母が働いていた会社の息子さんが出場するというので、たまたま母が誘ってくれました。大会の1回戦か2回戦を

観に行ったと記憶していますが、その時私は女子の決勝戦を観に行こうと決め、後日、決勝戦を一人で観に行きました。

 

そこで私はある一人のプレーヤーに釘づけになりました。北九州、大分県の中津南高校の高柳昌子キャプテン。

真摯に戦う姿に憧れ、優勝し表彰式のあと握手してもらい背番号ゼッケン4番に触れた時の熱い感覚をまだ覚えています。

 

(後に大学生でバレー部のキャプテンをしていた時、高柳さんと再会することになります。

アメリカのナショナルチームの監督、日立の監督をしていた吉田コーチが自分の大学の監督として就任され、

監督の奥様が昌子さんだったのです。)

 

この時、私は「バレーボールをやろう。」と決めました。

この日から、まずは基礎体力をつけることを始めました。

 

本屋さんに行って、トレーニング方法やバレーボールの教本を買って、ボロボロになるまで読みました。

毎日ランニングや柔軟体操、筋力トレーニングをやりました。

学校から帰ると夕方ボールが見えなくなるまで壁に向かってパス、スパイク、レシーブなどの個人練習をしていました。

小学校のクラブ活動でもバレーボールクラブがあったのですがお遊びみたいにやっていたので、

まずは走・跳・投の基礎体力をつけようと思い陸上部にはいりました。

バレーボールのことばかり考えていました。

 

小学校5年生の時、辛いことがありました。

今まで父は「アメリカに行っている」と聞いていてずっと信じていたのですが、

初めて父は亡くなっていたということを聞かされました。

 

ものすごいショックで泣いている日々がありました。

「片親」というコンプレックスをもちました。

母が夜中にお腹が痛くなって救急車で病院に運ばれていったとき、

母も死んでしまうのだと思い、

じぶんはみなしごハッチのような子になるのだと朝起きると涙で枕がぐっしょりなっている日が続きました。

 

親からよく言われていたことは、やさしく思いやりのある、ちょっぴり甘えん坊のこどもと言われていました。

小学校5年生ぐらいから反抗期で親に「うるさい」と言って干渉されるのがいやでした。

 

家族のことで楽しかったのは、毎週日曜日に母がケーキを焼いてくれたことでした。

マドレーヌ、ドーナツ、ホルン、クッキー、シュークリームなどたくさんの種類のケーキを一緒に手伝いながら作りました。

 

当時は、すべて手でやっていましたので、かき混ぜるのに腕が痛くなるまでやりました。

できあがったケーキをほおばるのが大好きでした。

 

中学校時代

 

バレーボールにとことん打ち込んでいました。

試験期間と年末年始以外は毎日練習でした。みんなとの練習だけでは物足りず、朝練を毎日一人でやっていました。

 

だれよりも早く学校に行って用務員のおじさんに門を開けてもらうと

ひとりで体育館にネットを立てて練習しました。ランニングや筋トレもやりました。

 

放課後の練習が終わって家に帰ってもひまさえあれば壁打ちやボールをいじっていましたね。

1年生ですぐレギュラーに選ばれると先輩から「生意気」といわれたり嫉妬され、冷たくされました。

 

しかし、それも気にせずバレーボールをとことん研究しスキルを磨きました。

2年生の時、中学バレーで抜きんでるためにはワンランク上の環境にいこうと思い、

中学2年生から県下でも有数のバレー強豪の高等学校の練習に参加していました。

 

夏の合宿に参加させてもらったときに、自分のレベルの低さをおもいっきり感じました。

技術面はもちろん、精神面、バレーに対する志の高さ、人間力にです。

自分はなんて子どもなんだと強く感じました。

 

中学校にもどり、このギャップを中学生レベルに活かすのはむずかしく、

監督にも上手く伝わらず、いつも孤独でした。

 

私の理想とする魅力的な先輩や先生がまわりにいなかったのです。

いつのまにか学校や大会などでもあこがれの存在になっていたのですが、

私自身はもっと上のレベルをめざしていて、いっそう孤独感を味わうようになっていました。

 

それでも普通に中学校生活は楽しんでいました。

好きな子ができてアタックしてふられたり、つきあったりと恋多き乙女でした。

 

しかし見た目がボーイッシュで、Mr.のあだ名がつき女子からもラブレターをもらったりして、複雑でした。

「かっこいい」という自己肯定感と、「女の子らしくない」というコンプレックスが入り混じっていました。

このコンプレックスはずっと続きました。

 

私には忘れられない先生がいます。

それは国語の女の先生で、いつも不思議な感じの先生でした。

私の行っていた中学の先生は、とても怖くて、

忘れ物や授業中の態度が悪いと、怒鳴られたり、びんた、バケツを持って廊下に立たせられたりと

今から思うと相当な体罰がありました。

 

そんな先生に対して反抗心を抱き、先生といえども理不尽な言動に対しては、

「それは間違っています」とはっきり言う生徒でした。

 

職員室のドアを思いっきりバーン!!と閉めたこともあります。

このころから、権威をかさに理不尽なことをする人に対しての抵抗が強くなっていきました。

 

その中でも忘れられない先生がいます。

その先生は国語の女性の先生で、体罰をしない本当に少数の先生のひとりでした。

 

しかし先生が怒らないと生徒はいい気になって、しゃべったり、先生を馬鹿にするのでした。(レベルが低いですね。)

その先生の最後の授業で、先生が言った最後の言葉を覚えています。

 

「私の授業はこれで終わりです。。。みなさん、死なないでね。」

といって教室から出て行った先生の首のかしげかたと表情を今でも覚えています。

 

そのときは先生の言葉の意味がわからなかったのですが・・・

 

 

家族との関係。

中学時代は、反抗期真最中でした。

母が心配性で過干渉に口うるさくしてくると、「うるさい。」「ほっておいて。」と母を突き放していました。

 

その割には、学校のことをいろいろ相談するのも母でした。

毎日、朝練に行く私に朝食と、どか弁当を作ってくれる母。そのときかかっていたラジオの曲は今でも覚えています。

ヴィヴァルディの四季~冬~です。

 

この曲を聞くと、お仕事もあるのに毎朝,早く起きてお弁当をつくってくれたやさしい母を思い出します。

また、母は女手ひとつで私を育ててくれ、真面目に仕事をしていました。

仕事の話などもよく私にしてくれました。母の会社に何回かいったこともあります。

 

母はとても優秀で仕事仲間からも信頼されているのがすぐわかりました。

なので私は、大人になったら仕事をして収入を得るのはあたりまえと思っていました。

 

中学校期を振り返ると、バレーボールを頑張りすぎていたかもしれません。

その中学のレベルで、力を最大限にだすことを工夫するというより、常に上ばかり見ていました。

チームからは浮いていたと思います。

 

 

 

高校生

 

高校時代はよりいっそうバレーボールに打ち込んでいました。

 

東大とかばんばん入ってしまう県下でも有数の進学校だったのですが、

朝練、放課後、土日と練習で、休みはお正月くらいしかない学校でした。

県下でも1.2位を争う名門でした。

 

顧問の先生は国語の先生だったので、

バレーボールの技術だけでなく、バレーに対する考え方、人生~生き方の話をしてくださいました。

 

本もたくさん読むように言われましたね。

遠征などで全国のたくさんの選手と交流したり視野も広がっていきました。

 

しかし、今から思うと顧問の先生の指導は行き過ぎでしたね。

頬をびんたしたり腿をたたいたり、椅子を投げたり・・・。

 

あまりの横暴さに1度はやめようと思いましたが、

チームメイトがあたたかくひきとめてくれ、続けることにしました。

今では本当に感謝しています。

 

試合や遠征では順番に先生のお弁当を作ったり、先生の荷物をもち、座布団やくつも生徒がだしていました。

 

先生の言うことは「絶対」という感じでわがままで甘えた専制君主のようでした。

私は父親をみたことがないので、男の人が、怒鳴ったり、暴力をふるったりするところも違和感がありました。

 

ご機嫌をとったり、気転をきかせるほうではなかったので、

「かわいくない」と私の容姿を「しもぶくれ」と言われたこと、

あだなをつけられたのですが、ある先輩に似ていたので妹みたいで「イモ」とつけられました。

 

私が、ミスしたり先生の意に沿わないことをすると「いも~」と意地悪くいい、

「いもねえちゃん」のイメージで馬鹿にした呼び方をしました。

 

私はこのときから気がきかない、女性として魅力のない、ださい人というコンプレックスを持ちましたね。

 

バレーでは大会に行くと、私よりうまい人はたくさんいたのですが、ファンがつくくらい人気がありました。

知らない人に握手やサインを求められたりプレゼントをもらったりしました。

 

チームとしては先生が専制君主のようでした。

選手に主体性を持たせるやり方もあのチームには必要でしたね。

 

やはり指導者の視点、見立ては大事です。

どのような指導法がいいのか柔軟性と創造性が必要です。

 

指導者の視野が狭かったですね。

もっとひとり一人の力、チーム力を引き出せたと思います。

 

家族との関係は、とにかくバレーに打ち込む私を応援してくれました。

毎日のお弁当づくりやマッサージもよくしてくれました。

試合にもけっこう応援に来てくれました。

ほんとうに感謝ですね。

 

高校時代を振り返ると、やはりバレーを頑張りすぎていたかもしれません。

また、先生のやり方で押さえつけられていた部分がかなりあります。

いやだったけれど、やめてしまうのは悔しい。

 

だから最後まで続けたという意味では良かったと思いますが、

自分の力もチームメイトの力も出し切れていなかったと思います。

 

それでも県の決勝にいっていましたから、残念です。

 

進路についてはあまり深く考えず、ただ体育が好きだから、

得意だからと漠然と体育の先生になることを考えていました。

 

ただ、本を読んだり、詩を書いたり、文章を書くことが好きだったので、国語の先生にもなりたいなぁと思いました。

 

体育の先生や、バレー部の顧問の先生に相談すると、口をそろえて「体育にしなさい」と言われました。

体育の先生からは、今まで見てきたどの生徒より体育のセンスがあるということでした。

 

 

大学時代

 

大学時代もめいっぱいバレーに打ち込んでいました。

高校とは違い、選手たちで目標を立て、練習メニューを組み立て、自主的にやっていました。

先輩後輩の関係はとても厳しかったです。

 

1年生のときからすぐにレギュラーで出ていたのですが、

スパイクがスランプで、キャプテンに特訓を申し出ました。

夕方からトスを上げてもらい一晩中打っていたようです。

 

ふらふらになり、跳べなくなってきて「もうだめだ~」と感じた瞬間、

体の力が抜けてびっくりするくらい切れ味のいいスパイクが打てたのです!

 

手足がいうことを聞かない分、体幹をうまく使って打てていたようです。

体育館を出た時、夜が明けていました。

 

これを機にスピード、切れ味がよくなり、スパイク決定率も上がってきました。

しかし、1.2年のときはまだまだ根性バレーをやっていた気がします。

 

3年生でキャプテンになったとき、アメリカのナショナルチームでのコーチ、

日立の監督をしていた方が監督として就任されました。

 

そこで私は初めて科学的なバレー、データーバレーに出会います。

しかもメンタル面でも、やらされてやるのではなく、

自ら決め、自ら動くというさらに厳しく高い目標を持ちました。

 

そして理論的に組み立ていく効率のよいバレー。

よりシンプルで自分達にあったバレー。チーム作り。

他チームの研究。実業団の練習見学。

 

あらゆる本や論文、ビデオなどを観て研究し、理論と実践、科学的トレーニングを継続しました。

結果の出方が違いました。

バレーの面白さに大学3年生で気づきました。

 

また、私は教育大学で、将来は高校の保健体育の先生になろうと決めました。

体育やバレーを通して子どもたちの能力を引き出したいと考えていました。

 

⑥社会人になってから どうしてその仕事を選びましたか?社会人になってから気づいたこと、感じたことなどがありますか?

 

幼い頃から体を動かすのが好きで、体育は大得意でした。

成績はずっと10でした。

走・跳・投すべて大好きで得意でした。

とくに球技が大好きでした。

みんなで遊んだり、何かを一緒に達成することが好きでしたね。

 

しかし、現実は相当厳しかったです。

当時、生徒数が多く1学年12クラスで一クラス45人くらいいたと思います。

校内暴力の全盛期でしたので、新米の女の体育の先生のことなど、いう事も聞きません。

 

家に帰ってからくやしくて毎日泣きながら夕飯を食べていましたね。

先輩の先生からも、バカにするような発言があったと思います。

不器用なので、かわいさなどでうまくかわせません。

 

「ちくしょー、今に見ておれ」と思いましたが、

なんせ経験がものをいう世界ですからしかたありません。

 

経験が少ないなら若い情熱でいくしかないと、がむしゃらに生徒にとびこんでいきました。

生徒に教えるというより一緒に過ごし、一緒に動くという感じでした。

 

女子バレー部の顧問になり、朝練から夕方の練習、土日を休みなく一緒にバレーをやっていた感覚です。

 

技術的にも精神的にも追い込むタイプの指導をしていました。

 

当時は、それしかないと自信をもってやっていましたが、

今から思うと視野がせまく、生徒に迷惑をかけたとおもいます。

 

他の先生から私のやりかたについていろいろ批判を受けましたが、

いいアドバイスは取り入れ、いじわるで言っている言葉は流していました。

 

けっこう「わが道をいく」感じでした。

 

他教科の先生、さまざまな年齢の先生からものすごい刺激を受けました。

いわゆる進学校、底辺校、中堅校などさまざまな学校に行きました。

 

生徒を学力という色眼鏡でみるシステムがありましたが、

生徒と接してみて全く関係ないということがわかりました。

 

特に私は体育を通して生徒と触れ合っていたため、

普段教室では見せない生徒の優しさ、思いやりなどを感じる機会が多かったのです。

 

進学校では、点取り虫のようにいいところを見せようとする生徒も多かったです。

底辺校、中堅校では、体育だけが生きがいという生徒が多かったです。

 

ふだんはつっぱっているのですが体育ではできない子に教えたり、

みんなが帰ってもグランド整備を毎回やってくれたり・・・。

 

私が手の指を骨折しながら授業をしていると

重たいボールかごを持ってくれたり、

私に球があたらないようにかばってくれました。

 

教えていて包帯がほどけてしまったとき、

「先生、保健室にいってくれば?ちゃんやっとくから。」

と言われました。

 

生徒から保健室にいってくればと言われたのは初めてでした。

生徒から教えられる場面が多かったですね。

 

家族・子どもについて

 

教育者、武道家、芸術家、経営者など相当優秀なご先祖様の血をいただいています。

作っていただいた土台をありがたく受け継ぎ、ご先祖様が果たせなかった夢を実現させます。

 

この時代に日本人として、しかも女性としてうまれた人生の意味を感じます。

 

長い間抑圧されていた女性が真に自分らしく生きていける世界をつくります。

 

自分自身、結婚し、子育てをしながら子どもたちの教育にたずさわっていたとき、

孤独感に何度もうちのめされそうになりました。

 

子育て、家事、仕事のサイクルしかなく、あまりの多忙さ、無理解、システムの理不尽さに、

自律神経のバランスをくずし、安定剤を飲みながら仕事をしていました。

 

信頼し、安心して話せるコミュニティーがなかったのです。

家族はそのときは、精一杯で、心配したり、サポートをしてくれました。

 

しかし、ときに家族だけでは解決できないことがあります。

とくに核家族は、閉鎖的です。

近すぎて、心配のサイクルに一緒にはまりこんだり、誤解をひきおこします。

 

家族といえども他人であり、ひとり一人の価値観も違うのですが、そのことは忘れがちです。

 

私は、幼いころ他人に育てられました。

遠い親戚のおじさん、おばさん、そのこどもたち、下町にすんでいた様々な家族、

近所のおじさん、おばさん、おにいちゃん、おねえちゃん、商店街の方々・・・。

 

この開かれた社会には違いを受けいれ、みんなで子どもを育て、

喜怒哀楽を分かち合うような底抜けに明るいエネルギーが満ち溢れていました。

 

あの中から自分らしく輝くひとり一人(ヒーロー)が育っていきました。

私は現代版の下町コミュニティーから地球コミュニティーをつくっていきます。

 

これは、わたしが家族から与えられたプレゼントであり、使命だと思っています。

実際振り返ると。子どもを授かったときに、ヨガとも出会い、自分自身と向き合う時間をとりました。

自然に自分を取りもどしました。喜びが湧いてきて、自分自身に対する自信と信頼を思い出しました。

 

結婚し、娘が生まれ、母になったことは、

私に「何があっても大丈夫」「やるだけやったら宇宙におまかせする」という安心感と底力を与えてくれました。

 

私は娘、旦那に感謝をこめて一緒にこれを作っていきたいと思っています。

 

ミラクル和クワクスペースランドがつくるもの

 

2000年くらいから「自分の学校をつくらなければいけない」と感じ、創ることを決めていました。

10年くらいは準備期間でした。学校関係者だけでなく様々な分野の人に会うようになりました。

様々な本を読んでいました。

グランドで生徒を待つ間や、空き時間、くだらない打ち合わせや職員会議の時間も本を読んでいました。

学校を立ち上げた直接のきっかけは、2011年4月に赴任したある高校のダンス部の生徒達との出会いです。

それはとても管理的な学校のなかにあっていわゆる先生達の手に負えないやっかいな生徒の集まりでした。

「その子たちさえ抑えれば学校は平和になる」という目をつけられていた生徒達でした。

顧問のなり手がなく、私に与えられた課題はその子たちを「抑える」ことでした。

1学期はとにかく生徒との葛藤でした。

「抑えつける」ことだけはどうしても私の信念に合いませんでした。

肉体的にも精神的にも限界にきて「何かいい方法はないか?」「助けて!」と祈るような思いで夏休みを迎え、ヨガの合宿でたまたま行った福島にて運命的

な考え方に出会いました。

「人はもともと美徳を持っている。それをただ思い出せばいい」

この言葉に出会ったとき、私は雷に打たれたような感覚になり、「できた。」と思いました。

これで「自分の学校はできた。」と直感で感じました。

 

2学期から50人の生徒ひとりひとりと時間をとって

「ほんとうは何をしたいか。」

「何を、どんなダンスで伝えたいか?」

「どんなダンス部にしたいか?」

を聞きました。

 

生徒は驚くほどしゃべってくれました。

 

そこでミーティングを開き、ダンス部のヴィジョンを部員全員でつくりました。

それは「信頼と和」を大切にするチームでした。

 

そのためには、何をするか?どんなルールが必要か?などを全部、自分たちで考えさせました。

それから生徒たちは見違えるように自分から進んで部活動

や勉強などの学校生活にも取り組むようになりました。

 

持ち前の情熱、思いやり、創造性を発揮し、たちまち学校の中心的な存在になっていきました。

いままで勉強をしなかった生徒達は成績優秀者が何人も出てきました。

 

この頃から奇跡の出会いが一気に始まりました。

 

その後1年半学校現場で自分のやり方に確信を得ましたので、

3月に公立の学校の先生を卒業し、

その年の7月に株式会社ミラクルフレンズを設立し、

自分の学校「スーパーミラクル塾」を始めました。

 

3年間で300回ほど塾やライブ、演劇などを主催してきた中で、今回「ミラクル和クワクスペースランド」と名前を改めました。

それは塾や学校が「先生から何かを教わる」という受け身的なイメージを抱きやすいためです。

 

これからの時代に「自分は、ここが足りない。

それを直すために誰かから学ばなくてはいけない。

頑張って、苦しんで、努力しなければ幸せになれない。」

という考え方は古くなってきました。

 

「楽しく、ワクワク情熱を持ってできることのなかにほんとうの自分を思い出していく。

 

それを自分の幸せのためにはもちろん周りの人の幸せのために自然にやっている状態」を創っていきます。

そんな個性豊かなひとりひとりがつながる大家族のようなコミュニティーを創ります。

 

その核になるのは、世界中の人が学びに来たい、日本精神が誇る「和のこころ」です。

かつて日本の下町にみられた家族の絆、感性、情緒を取りもどし、家族を基盤に和をもって人と接し学んでいくコミュニティーです。

 

これを日本から世界に発信し「地球コミュニティー」をつくります。

 

宇宙的にみても地球ほど、面白い冒険、魂の成長ができる魅力的な星はまれなようです。

いずれいろいろな宇宙からこの地球に遊びに来たいと思うような、

宇宙の遊び場として喜びのアトラクションをみなさんと一緒につくり、

「宇宙大家族」とともにおもいっきり遊びたいと思っています。